究極に苦しんでいる人のためのカンフル剤

苦しみ抜いたあげくに、解決策もなく助けてくれる人もいない状態にある時、もう死んでしまいたいと心が絶叫している時、ノンデュアリティーが究極のカンフル剤になるかもしれません。死んでしまいたいほど苦しんでいる時、今まさに目の前に繰り広げられている地獄はただの冗談であって夢か幻想だと思う以外にどんな救いがあるというのでしょう!

ノンデュアリティーとは

 日本語に訳すと「非二元」ということです。つまり、二つではなく一つということ。すべてはひとつのエネルギーでできていて、私たちの体も、いつもお世話になっているパソコンも、椅子もテーブルも、全部一つのエネルギーの表現であるという考え方です。すべてのものはこれ以上分解できない状態まで分解すると素粒子になります。ものだけではなく、考え方や概念、思考、喜怒哀楽など全部が一つのエネルギーでできています。そう考えると、自分の皮膚の内側に心臓や肝臓などの臓器があって、それが自分であり、皮膚の外側には空気があり、お友達や先生がいて、それは自分以外の存在である、というふうに自分と自分以外の物や人と考えるのではなく、存在するすべての物や人の間に境目はない、という考え方に至ります。いろんなハプニングや困ったことが自分の身に降りかかっていると思うから苦しいのであって、本当は「自分」という存在は生まれてもいないし、永遠に死ぬこともない壮大なエネルギーの一部である、と考えると、少しだけ気楽になりませんか?

すべては冗談です

 ノンデュアリティーについて書かれている本によると、私たちの人生は映画を観ているようなもので、夢か幻想のようなものだと記されています。空体験をした人の本によると、存在するすべてが愛に満ちていてこの上なく平穏で静謐な世界を見たと言っています。その人は、歩いている時の足の感覚を観察している時に、自分がいなくなるという体験をしたといいます。歩いているのは、○○さんが、○○という公園を歩いている、という感じではなく、ただ単に「歩く」という動作が現れているだけで、歩いている自分とは無関係であることに気付いたと言います。こんなことを言うと、解離性人格障害と間違えられそうですよね。でも、そんなこともあるかもしれないと私は思うのです。私も小学生の時に同じような経験をしたことがあります。給食を食べた後に急に自分がいなくなって最後の6時間目の授業が始まる前になぜか校舎の廊下に立っていました。愛に満ちた静謐な世界を見たとは言えませんが、時間も空間もない世界が本当にあるのかもしれません。今は夢を見ているだけで、目が覚めたら、あ~夢だったのか、よかったぁ、と言う時が必ずくる、と思えば少しだけ気楽になれませんか?

ノンデュアリティーを嫌う人

 ノンデュアリティーは唯一たったひとつのエネルギーであるワンネスのことを言っています。人間には欲がありますから、誰かと比べて自分のほうが優れているという優越感を味わいたいのです。相当な努力の果てに手に入れたものを勲章のように見せびらかしたいのです。人間誰でも、自分が人生の主人公で、素晴らしい才能がある、と思い込んでいるか、または、勘違いして生きています。でも、ほとんどの場合、才能もなく、タダの普通の人、あるいは、そのへんに転がっている石ころみたいなレベルかもしれません。それでもいいじゃないですか、生きているだけで、五感を発揮して、美しい花や山、川、花火、なんでもいいですけど、美しい物を見て楽しむことができます。大金持ちになって豪邸に住んで、高級車を乗り回すことだけが幸せではないかもしれませんよ。そもそも、大金持ちになるかどうかは、生まれた時から決まっていますから、有名ユーチューバーになってやる、とか、大女優になるんだ、と言っても努力と結果は比例していません。あなたは何にもなる必要がないのです。全部決まっているなんて、夢も希望もなくなる、と言って怒る人もいるでしょう。人間は頑張って結果を出した自分の歴史が無くなるのが怖いのです。だから、死ぬのも怖い。自分が生きた証が無くなるのが怖いのです。これは私の考えなんですが、死後の世界は、とこからどこまでが自分で、どこからが他人なのか区別できない世界ではないかと思います。自然の流れに乗って、その時その瞬間に目の前に現れた小さな幸せを、ひとつ、またひとつ、と味わって生きている人が一番幸せかもしれないと思う今日このごろです。

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