『他力』 BY 五木寛之

これでもかこれでもかと次から次へとやってくる困難!
日常のトラブルと共にやってくる体の不調!
とてつもなく恐ろしいものに見えてくる未来!
不安と焦りに中で私達の心が求めているものは何か?
泣き叫ぶ人のそばにそっと寄り添い、
何も言わないでそばにいてくれる人がいたら、
一緒に涙を流してくれる人がいたら、
人はどんなに救われることでしょう。
今日は、五木寛之氏の『他力』の素晴らしさについて述べてみます。

誰一人として置き去りにできない大慈大悲の仏様

 努力の限りを尽くして孤軍奮闘してきた結果、なおもどん底から抜け出せない時、人は絶望する。四面楚歌状態で誰からの援助も受けられず、陰陰滅滅としている時、人は生きている意味すら失う。そんな時に私達のすべてを受けとめてお助け下さる方が阿弥陀如来です。最後の砦として私達の罪をすべて許して救ってくださる仏様です。
 五木氏の本の中で深く共感した部分があります。「この世は、鳥は歌い、花は咲くパラダイスではなく、苦しみと絶望と挫折の連続です。人は泣きながら生まれて来ます。すべてに期待しない。こういう風に覚悟を決めたほうがいいと思うのです。もしそこに、意外な触れ合いや共感に巡り合ったとき、それは奇跡的なこととして感激すればよい。」と言っています。ほんとうにこの世は苦しい事が次々と起こって自分ではどうすることもできない、と思うことが多々起こってきます。それでも私達は生きていかなければなりません。しかし、あまりにも頑張りすぎると、緊張しすぎて固くなってしまい、ポキッと折れてしまうのです。折れないようにするために、よい考えかたは、五木氏が述べているように、「期待しないこと」だと思うのです。うまくいけば喜べばいいし、失敗したらダメ元だ、と諦めたらいい。最近、私も年を取ったせいか、苦しい事態になっても、自分から離れて自分をはたから見ていることができるようになりました。ため息なんかをつきながら、またかぁ、と、少しくらいは思えるようになったようです。変化に動揺しなくなるというのはいいことですね。この世の物や人や考え方や思考はどんどん変わりますから、変化するたびにいちいち驚いていたら身が持ちません(笑)。それに、よいこと、嬉しい事ばかりが起こっていたら、よいことの有難味が分からなくなるでしょう。悪いことがあるから良い事があったとき、その出来事が燦然と輝く宝石になるんですよ。闇と光はほんとうはお友達なんです。闇がないと光は存在できません。光も同様です。光も闇も相手がいなければ存在できないのです。あたりまえだけど不思議ですね。光ばかりで闇が存在しなければ、私達は「闇」を全く理解できないし、どんなことなのか、どんな状態なのか、いったい何なのかさっぱり分からないわけです。
 特に信仰を持たない日本人の心の中にも、神様や仏様がしっかりと息づいていると思うのです。宗教団体に入る事はお勧めできませんが、「南無阿弥陀仏」と唱えて、大きな力に頼る時代がきたと思います。『他力』の本の中では、親鸞聖人や蓮如上人の生きざまが、苦しい現代に生きる私達に優しく語りかけてくれています。

深く絶望する人にしか本当の確信は得られない

 五木氏の言葉の中に、「深く絶望する人間にしか強い希望は掴めません。強く悩み、強く迷う人間にしか本当の確信は得られないのです。」という文章があります。にっちもさっちもいかなくなる、という言葉がありますが、そういう事態になったところから芽生えた希望というのはかなりのパワーを持っているのだと思います。
 この考え方はノンデュアリティーの考え方に少し似ているように思います。人は苦しみ抜いた果てに、真実の世界を見るのです。真実の世界は、とてつもなく美しく、静謐で、平和で、争いのないところだそうです。仏教でいうとお浄土といったところでしょうか。「絶望」は「悟り」への誘いなのかもしれません。五木氏の考え方では、絶望することによって希望がつかめる、と述べています。私も絶望の淵から復活させていただいたように思います。万事休す、と思った時にフラフラっと出かけて、たまたま出会ったことが私を救ってくれました。私は「他力」の力で不思議な出会いをゲットしたのだと思います。子どもの頃、二回も死にかかったこともありました。死ぬっていうのはこんな感じなのか、と思ったくらい怖かったです。その時も助けてくれたのは「他力」だったのだと思います。ノンデュアリティーの考え方にある宇宙エネルギーを五木氏の「他力」だと思えば、私達は、「他力」のすぐそばに存在していると言わざるを得ません。
 私達ひとりひとりがみんな他力に繋がっていると思うと、なんだか元気が出ませんか? どの人もみんな同じ親分に従って生きている子分みたいなものです。この親分は、一人残らず子分を全員救ってくれる親分です。そのことに人類全員が気づく時が来つつあるように思うのは私だけでしょうか。

死ぬレッスン

 なんだかギョッとするタイトルですが、自殺を斡旋するものではありません。五木氏は、「明日の朝は目が覚めず、今日が最後の日になるかもしれない」と自分に言い聞かせて日々過ごしているといいます。最近、最後によい人生だった、と言えるためには後悔しないことが一番だと思うんです。やりたいことを面倒だからといって先延ばしにしていたら、明日はもう死んでしまっているかもしれないのです。蓮如上人の「白骨の章」に書いてあるとおり、朝は元気よく赤い血色のよい顔で出かけたのに、帰る時には死んでいるかもしれない、というまさにギョッする文章があります。家族みんな元気で活躍していらっしゃる方は、不気味に感じられると思いますが、大切な家族を亡くされた方にとっては非常に慰めになる文章です。記事の下にYouTubeで紹介されている白骨の章を貼っておきますので興味があるかたは見てください。つまり何が言いたいかというと、与えられた、生きている時間を大切にすることが重要で、やり残したことがないのが良い人生に繋がっていくと思うのです。

 

 今、日本人は、この苦しみから逃れるために、出口のカギを求めて東奔西走しながら漠然とした不安の中で暮らしています。しかし、出口には鍵はかかっていないと思うのです。鍵の代わりに、本書からドアの開け方を伝授したいという五木氏の強い思いが伝わって来たように思います。五木氏が人生で獲得したすべての経験が結集し、まるで液体のように心に染み入る素晴らしい名文に感動しました。

 

<白骨の章>

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