幸福の正体

人間はいつも今よりもっと幸せになろうと、日々頑張る。
生まれた時から死ぬまで、幸せを求め続ける。
高級車を乗り回し、海外旅行に行って一流のホテルに泊まる。
好きなだけ好きな物を買って、
他の人よりも一ランク上である自分に
優越感を感じる。
これが幸福な人の特徴だと勘違いしている人がいる。
どんな時も、どんな人にでも、幸福はすぐ目の前にあるのに、
ほとんどの人が本当の幸福に気づいていない。
当たり前のことが当たり前ではないのに、感謝を忘れている。
神様を忘れてしまった私たちにできることはなにか。

 私は、「得を積む」とか「修行する」、「魂を磨く」、「魂の成長」などという言葉が嫌いです。魂があるかどうかは誰にも分かりません。苦しい時期を修行だの、魂の成長だのと言って、乗り越えようとしたところで、何も変わりません。今よりも良くなりたいと思って頑張ったその努力とは無関係に、ただ変化が起きているだけです。
 ノンデュアリティーの世界では、貧困層と富裕層、とか、善良な人と悪い人、という区別がありません。人は生まれてから、いろんな状況や物などの概念を学び、善悪の区別ができるように周囲の人達から教育を受けます。人間界は人間のランク付けが大好きですから、うまく世の中を渡っていくために自分や他人の位置関係を明らかにしたがるようです。会社でも運営をスムーズにするために、チーフとか係長とかのポジションを決めておくと便利なんでしょう。しかし、その便利さに関係なくどんな団体でも、上のポジションをゲットすればするほど傲慢になる人がいます。また、ある出来事に不幸のラベルを張り付けて、不幸の奴隷になっている人をよく見かけます。さっさと悟って幸せになろう、と思う人が最近増えていると言われています。私もそうなりたいと思ってジタバタしている人間のひとりです。そこで、不幸の解釈を変えることを思いつきました。人間界における不幸とは、大きな不幸を防ぐためにやってくる小さな不幸だと考えたらどうでしょうか。私は以前、仮想通貨に凝っていました。数万円のお金を使って、買ったり負けたりして、500円とか1000円位の金額を稼いで喜んでいました。これはいい! と思ってウキウキしていたのもつかの間で、8万円のお金が4万円になってしまいました。4万円の負けです。私にとっては大金なんですよ(苦笑)。あれから、仮想通貨をきっぱりやめました。この出来事を少し前進させてみると、「いける」と思って大量にお金をつぎ込んでいたら、もっと悲惨な目に遭っていたでしょう。100万円で仮想通貨を買っていたら、50万円という多額のお金を失っていたところです。このたぐいの賭け事はもう二度とやらないと思います。4万円の損害が未来のお金を救った、というのは大げさかもしれませんが、大難が小難になったと思えばいいのではないですかね。しかし、この考え方を人間界で発生した不幸な出来事全部に当てはめることは出来ません。大切な人が命を落とした場合、それでも気楽に大難が小難になったなんて言えないでしょう。言えるはずがないです。いろんなノンデュアリティーの本を読みましたが、大したことのない出来事しか引用されていません。大切な人が交通事故で植物人間状態になったら、宇宙エネルギーが引き起こしたことだ、なんて云うと、本当に困っている人から殴られそうですよね。人間は生涯をかけて、どんなに苦労しても、努力しても悟ることはないと思います。悟ることができるとしたら、死ぬ瞬間だと思います。
 ノンデュアリティーは浄土真宗の考え方とよく似ています。浄土真宗では宇宙エネルギーを阿弥陀如来に例えて、すべての人間は必ず救われる、と説いています。ノンデュアリティーの幸せの感じ方というのは、無我夢中という言葉があるように、我を忘れて人生を味わうことだと思います。美味しいステーキを毎日食べることができる、ということが幸せではなく、ステーキの、柔らかさ、味、歯ごたえ、香り、など、五感を通じて感じることが幸せだと思います。都内のタワーマンションに住んでいることが幸せなんじゃなくて、その部屋から見える風景を楽しむことが幸せです。人生を深く味わっている時には、自分という存在が消えて空や空気になり、あるいは山の風景の一部になっています。ノンデュアリティーをほんの少しだけでも、一万分の一でいいから感じ取ることができたら、この不安定な世界を生き抜くのに、少しだけ楽になるような気がします。

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