無念夢想なんかしなくてよろしい

苦しみから逃れるために、
座禅を組む。
無念夢想の境地から
悟りたいと願う。
そんなことをするよりも
カフェでコーヒーでも飲んでいたほうがよい。
そのほうがよほど早く悟れるかもしれない。
そもそも、悟ろうとしなくてもよい。
すでに悟りはすぐそばにあるような気配がする。

不幸が自分の身に降りかかった、
と思うところから、
すべての苦しみが始まる。
そもそも、自分という存在はない。
存在していない人が苦しむわけがない。
思考や感情はその人ではない。
思考が湧いてきても、
やがて消える雲のようなもの。
眺めているだけでよい。
思考が自分を苦しめているのではない。
思考はどこから湧いてくるのか分からないけど、
思考と自分は無関係である。
無視しておけば消える。
もし、思考に振り回されたら、
思考に振り回されるという現象が起こっているだけ。
誰も悪くない。
思考も人間の体もひとつのエネルギーの表現でしかない。
すべてはひとつから発生していて、
境界線がない。
砂浜がもし粘土でできていて、
その粘土でお城を作ったり、
馬車を作ったり、
家来やお姫様を作ってみたら分かる。
お城も人も馬車も、
粘土でできている。
この世はそれと同じ。
机も、車も、家も、お友達も、自分の体も、
細かく分解したら素粒子になる。
空気も同じ。
だとしたら、
私とあなたと海と山と家の間には、
距離がなくて、
ビッシリとつながっている。
すべてはノンデュアリティー。
この世を映し出している映写機のようなものは、
光であり、
静寂であり、
平和そのものであり、
何一つ困ったことのない、
  完ぺきで愛に満ちた世界である。
そのことを悟りたいと思えば思うほど、
不思議なことに、
悟りは手に入らない。
そんな時は、
カフェでコーヒーを飲んでみよう。
コーヒーから立ち込める、
極上の香りと白い湯気の中に、
悟りをみることができるかもしれない。
悟りとはそんなもののような気がする。

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