頭の中を断捨離する

みなさま、こんにちは!
今年は早々から困ったことが起こっています。コロナウィルスは私達から大切な人生の一ページを奪っていく。卒業式、スポーツイベント、ビジネス、仕事、今まで当たり前にできていたことが突然できなくなる。人と人との距離がだんだん遠くなる。孤独になる。流れる思考の雲を見つめてみる。くだらない雲がダラダラと流れていく。

京都の平安神宮

人間には心配がつきまとう

人間には「過去」と「未来」という概念がある。私達は、過去から未来を予想して不安になる。勝手に物語を作っては「きっとこうなる、ああなる、どうしようもない」と思ってしまう。空を飛ぶ鳥達は、明日の天気など気にせず、明日のエサの事も気にしないで、悠々と空を飛んでいる。彼らには過去も未来もない。あるのは「今」だけ。風の冷たさも、空腹感も、まぶしい太陽も、全身で感じ取って、ただただそこに生きている。人間だけが高度な頭脳を持っているため、推測したり、未来の計画を立てたり、同僚のわずかな表情の変化を見て不安になる。しかし、すべては、宇宙の法則にのっとって寸分の狂いもなく発生している。「あの時あーしておけば、こんなことにならなかった」と愚痴る人がいる。その思いはこれからの教訓にはなると思うが、起こってしまったことはどんなことでもパーフェクト。そのような結果になるようになっていたと言ってよい。私達の選択が誤っていたことは一度もない。決断を下すとき、自分で決断しているように見えるけど、本当は決断しているのは自分ではない。宇宙の法則とでもいうべき存在がすべての決定権を持っている。私はその大いなる存在を「神」と呼びたい。神じゃなくても、宇宙エネルギーでも、宇宙の法則でも、何でもよいと思う。コロナウィルスも、神の計画として起こっているものと思われる。何の目的かは分からない。神様の行いは計り知れないほど精密なもの。人間には理解不能。これに対して何もしなくてもよい、と言っているのではない。人間は危機を察知すると命を守る体勢に入るようにプログラムされている。私達はプログラム通りに動いている。人によって細かくプログラムが違っていて、プログラム自体を変えることは無理。じゃあ、なにもかも私のせいじゃないよ、神様の責任だから、と言って投げ槍になるのはよくないけれど、ある程度、自然の法則に従って流れるように生きているのもいいと思う。個人の寿命も決まっているのなら、どんなことがあっても、その寿命までは生き延びられる。コップの中の水は、あと一口で無くなる時に、神様がもう少しだけ水を足してくれる。私もそんな経験をたくさんしたことがある。だから大丈夫。
全てには始まりと終わりがある。それが人間界の決まりだ。だから、余計な想像に振り回されて苦しまないようにしたい。「外出できなくなる」➡「トイレットペーパーを買っておかなきゃ」➡「店からトイレットペーパーが消える」➡「買っておかなきゃ」➡悪循環。どんなに苦しい状況もいつかは終わる。逆に人の活動が鈍くならざるを得ないこの時期を、何か他の事に利用してみるのもよい。新発見があるかもしれない。




 

ノンデュアリティー

人生は一冊の小説みたいなもの。私は「ジャスミン・葉子」という小説を渡されている。途中まで読んだけど、とても悲惨なことが多すぎて目を覆いたくなる。これ以上読みたくないと思う時がある。でも、最後まで読んでみよう、と自分に言い聞かせる。どんなに悲惨なことが書いてあっても、次のページには何が書いてあるのか誰にも分からない。素敵な事が書いてあることを祈って読み続ける。皆さまは『水戸黄門』を知っているでしょう。あの筋書きはいつもワンパターンで、最初の一分だけ観たら、今日は〇〇代官が黄門様にやっつけられて終わりだぁ、と誰もが瞬時にストーリーを見破る。この物語は、先が分かっているから安心して心配できますよね。町人の娘が、悪人に切られそうになるシーンではドキドキしながら見ていても安心でしょう。見ている観客は切られたりしませんからね。ノンデュアリティーによると、人生もそれと同じで、映画を観ているようなものらしい。客席もストーリーの映像の中に入っているような不思議な物語。ゲームに例えたほうが分かりやすいですか? 私達はゲームの中で戦うキャラクターみたいなもので、実際は存在しておらず、生まれてさえいないのです。こんな風に客観的に人生を眺めることができたら楽でしょうね。すべてのものやできごと、感情も含めて、感覚や気分すらも、すべて神の表現でしかない。ライフは喜びに満ち、苦悩に満ちている。
かくかくしかじかでなければならない、という考え方を捨てて自由になりたいものです。そうはいっても、人間は夢や希望を抱いて生きている。それでも、自分の思う通りにならないのが人生というもの。夢破れて山河あり。夢が叶っても、叶わなくても、懐かしく美しい山や川はいつまでも変わらない。目標に向かって突進する、というのも神から与えられた計画で、惨敗するのも成功するのも神の計画ということ。




 

人を羨むことはない。憐れむことはあっても、、、

生まれたての赤ちゃんは、自分の名前すら分からない。成長すると、女の子ならかわいい服を着せてもらって、こういう服を着てこんな髪型のこんな靴を履いている私、つまり、肉体が自分であると認識し始める。私と私ではない人、私と周囲にある物質、といったように、自分が世界から分離した存在だと信じる。さらに成長すると、しっかり睡眠をとって健康によいことをやらないと長生きできない、と教え込まれ、いろんな思考に振り回されて生きるようになる。勉強して、立派な大学に入って、よいところに就職して、よい人と結婚する、などと、幸せの鉄則のようなことを信じ込まされる。人は、「私は他の人とは違う」とさらに傲慢になって、世界からもっと分離していく。この分離こそが不幸の根源。すべてのものは、同じ成分でできている。こまかく分析するとすべては素粒子になる。海の水をコップにすくい取ってみる。コップの中に入っている海水は私達人間のようなものだ。コップの中の海水は、自分が海であることが分からない。コップの海水を海に戻してみる。その海水は海にもどってどこに行ったのか分からなくなる。もう一度さっきすくい取ったのと同じ海水をコップに入れることはできない。永遠に変化しない本当の世界は、海のようにとてつもなく美しく静謐なところだと思う。私達の肉体が朽ちて死んでも、私達の肉体を動かしている「何か」が永遠の世界に溶け込んでいく。時間も空間もない「無」の世界。安心と平安に満ちた世界に誰もが帰る時がくる。私は、基本的に地獄の存在を信じていない。みんな同じ世界に帰るのだと思う。海に戻った海水のように、どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではない存在なのか分からない世界、つまり、自分と他人の区別のない世界が本当の世界ではないかと思う。すべてはノンデュアリティー。すべてが同じもので出来ていると思うと、道端におちている石ころも愛おしくなる。私達は、心優しい仲間であり、憎み合う敵でもあり、或る時は、人を殺す刀になったり、人を楽しませる美しい食べ物にもなる。すべては本当は分離していない。ひとつである。そう思ったら、犯罪を犯してしまった人を見ても、私の中にも同じような性質が生きていると思うと、哀れみの目で見ることができるだろう。
人を羨んだり、自分を卑下したり、逆に他人を自分より劣ったものだと思うのをやめて、頭の中をリセットしたい。あなたは、何かになる必要はない。「○○大学卒」にも「〇〇会社の社長」にも、何にもならなくてもよい。何の努力もしなくてよい、という意味ではない。努力したい人はしたらいい。〇〇になろうとして頑張ってもよい。努力も才能だから。しかし、その結果は、神に任せよう。苦しい時、力んでばかりいないで、力をぬいて、思いっきりダラダラしているのもいい。すべてを神に任せると不思議なことが起こる。

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