『わかっちゃった人たち』 サリー・ボンジャース

 悟りは、特別に修行した人にしか起こらないと思っていませんか? 今日紹介する本である『わかっちゃった人たち』は、悟った普通の人の体験談が書かれています。徐々に悟りが起こる人もいれば、急激に悟ってパーッと目の前が明るくなる人もいるようです。人はどうして悟りたいと思うのでしょうか。人はこの世の苦しみから解放されるために悟りを求めるのだと思います。

 

「これ」だけが存在する

 世界はかなりシンプルにできているそうです。苦しみは自分という存在があって、その自分に不幸や災難が降りかかっていると思うから苦しいのです。
 悟りの体験者は、「自分がいなくなる」という体験をしています。肉体としての自分は確かに存在しているように見えます。でも、どんな物や人にでも、顕微鏡で見ないと見られないほど近寄ってみると、何も無いことに気付きます。空っぽの空間があるだけです。それなら自分は一体誰か、という問題について考えたことがありますか? 宇宙を作っている意識そのものが私達で、私達はプログラム通りに活動しているのです。宇宙の意識を神と呼んでもいいし、宇宙の法則とかエネルギーと呼んでもいいと思います。このブログでは「これ」という言い方をします。この本の中の体験者は、自分の身の回りにあるテーブルや椅子、クローゼットなどの物質が、悟る前と比べて違って見えると言います。とにかくキラキラしていて、自分も周囲のものと同じ存在であると感じたというのです。悟りはある日突然起こることがあって、一度悟ってしまったら、物の味方や感じ方が変わり、起こった出来事を深刻に考えなくなるといいます。
 今、私達はコロナを退治することができず、経済が落ち込み、混沌とした世の中に得体のしれない不安を感じながら生活しています。このような状態もまた「これ」のなせる業であり、誰のせいでもなく、誰の身にも本当は不幸なんて起こっていないのです。私、あるいは、あなた、というある人格を持った個人は存在しないのですから。

 

「これ」を信頼して生きる

 本書の登場人物のひとりは、自分もまた「これ」でしかなく、「これ」を完全に信頼して生きている、と述べています。そこには素晴らしい喜びと途方もない愛が満ち溢れているといいます。
 人は何かを目指して頑張り、素晴らしい結果を期待して生きています。そして、期待通りに行かなかった場合に苦しみがやってくるのです。本書で悟った人の一人は、悟ってからは何も期待しなくなったといいます。確かに、期待してないのだから、思い通りにならなくてもあまりガッカリすることはないでしょうね。とても楽ちんな生き方だと思います。私が思うのに、現在の自分の環境や状態は、自分にもっともふさわしい状況なのだと思います。住んでいる場所も、食べている食物も、ぜーんぶが寸分も狂わずパーフェクトに発生しているのです。しかし、人間には今よりもっとよくなりたい、というマインドが発動して、もっともっともっとという際限のない欲望のおかげで、いつも何かが不足していて不愉快であるという感覚が付きまとうのです。「これ」にはかくかくしかじかでなければならないという決まりがなく、何にもとらわれない自由があります。今の状況に不満を抱いている人も、変は言い方ですが、不満を抱くというパーフェクトな状況の中にあるのです。豪邸に住んでいる大富豪のAさんも、パーフェクトな状態でそこに住んでいるわけです。Aさんに、お金持ちであるとう状態が起こっていると思うから、Aさんが羨ましくなるのであって、お金持ちという現象がただ起こっているだけです。Aさんに起こっているわけではありません。Aさんとお金がたくさんあるという状況は別々に発生しているのです。
 どんなに苦しい状況下にあっても、私達は「これ」から逃げ出す事は出来ません。私達自身が「これ」なんですから。困難をそのままほっとけばいい、といっているのではありません。人間は苦痛を嫌いますから、苦しい状況がから抜け出す計画をすぐに立てるでしょう。その計画もまた「これ」が行っているのです。
 「これ」がどんな表現をするか見守るという感覚で過ごしていると、たいていのことが自然に解決するような気がします。私達は、何にもなる必要がないし、何かを目指す必要もないのです。

 

どうしても悟らなければならないのか?

 この本の中に登場する人達は、悟った人としてたまたま本に掲載されただけで、特に興味の無い人は悟らなくてもいいと思います。最近盛んに話題になっている二極化は、悟った人と眠っているままの人に分かれるというものです。私は、二極化どころが、宗教などによって、二極化以上のたくさんの分離が起こっていると思います。
 私は宗教団体に所属するのが嫌いです。実際、どこにも所属していません。どの宗教団体も、自分が信じている神様なりご本尊様なりが最高だと思っていますから、悟った私達と悟らない人達という風に自分と他人の間に垣根を作ってしまいがちです。それは、ワンネスを否定する表現のように感じます。もし人間の肉体や思考を動かしている魂があるとしたら、私達人類はだれでも魂の深いところで、ノンデュアリティーを知っているのではないかと思えてならないのです。本当はみんな悟っているのです。もし、もっと強烈な二極化が起こったとしたら、ノンデュアリティーは嘘っぱちだ、という思いもまた「これ」の仕業であって、ワンネスを信じない人がいる、という現況が起こっているだけです。なんというパラドックスでしょう!
 「これ」に信頼して生きると、ものごとを深刻にとらえなくなるそうですから、悟らない人よりも悟った人のほうが難関がやってきたとき、毅然とした態度で過ごせるんじゃないかと思います。

 

 これでもかこれでもか、と難問が発生するのがこの世の定番です。悟りを開いて、物事を深刻にとらえず、流れる雲のようにやがては去っていくものとして傍観するとき、ふっと問題が解決することがあります。起こった問題には、幾通りもの戦う道もあれば、逃げ道もあるものです。悟りを得る事によって、この本の中に登場する人達の人生がどのように変化したのかチラッとのぞいてみることをお勧めします。世界はあまりにも残酷で苦しみに満ち溢れています。ほんのちょっとだけでも、生き易くなればと思い、この本を紹介してみました。

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