『人生の目的』 BY 五木寛之

こんにちは!
人生の目的はない、と五木氏は言っています。
先行きの見えない末法末世の現代において、
人生の目的も持たずに、
私達はどのようにして、
この長いトンネルを生き抜いたらよいのでしょうか。

千円札一枚の重さをひしひしと感じる

 五木氏は、今からの世界は、「持つ人」と「持たない人」に分かれる時代になる、と述べています。ここほんの数年で、私も千円札一枚の重みを感じるようになりました。消費税がまだ3%だった頃と比べると、今や10%の消費税は重く肩にのしかかっています。スーパーの商品も便乗値上げしたのでしょうか、えらく高くなりました。鶏もも肉が、以前は300円代だったものが400円~500円代になっています。大きさは同じなんですよ。今から消費税が25%まで上がるという噂もあります。なんだか、江戸時代に年貢米をたくさん取られて生活が困窮していたお百姓さんのことを思い出しています。では、「持つ人」になればいいじゃないか、と思われるかもしれませんが、人生は思うようにならないのです。五木氏は、けっして恵まれていたとは言えない子供時代の家庭環境の中で、父のため息から深い人生の味わいを得たと言っています。喜ぶことも悲しむ事も大事で、希望を持つことも絶望することも大事であると述べています。重苦しいため息を感じ取ることが、より良き人生を歩むための土台になる、というのは分かるような気がします。ただ物質的に恵まれていて、思い通りの教育を受けることができ、思い通りの物を買うことができる嬉しいばかりの人生からは本当の幸せを感じ取ることはできないような気がしています。ダイヤモンドのように光り輝く一瞬は、苦しみを乗り越えようとしているまさにその最中にあるのかもしれません。

できることとできないことは業縁によって決まっている

 ある日、親鸞聖人が弟子に成仏させてもらいたいなら、千人の人間を殺しなさい、と言われた、と歎異抄に書かれています。誰でもいいから手あたり次第に殺せというわけです。そんなことを言われても、弟子は私にはそのような行為は出来ません、という。親鸞聖人は、じゃあ私を信じていないのか、と問われました。弟子は、虫一匹殺せないと答えました。そこで親鸞聖人から種明かしとして業縁ということを教えてもらいました。「殺人ができないのは、業縁がないからであってあなたが善人だからではない。人を殺すくらいなら自分が死んだほうがましだ、と思っていても、業縁があれば、千人の人を殺す事になるかもしれない」というのです。人間は、こうしたい、ああしたい、こうなりたい、ああなりたい、と思っても思うがままに行動することは出来ません。だから、人の行動を見て、あの人は悪い人で、この人はいい人だ、と決めることはでいないのです。コロナのせいで弱い人がどんどん解雇されたり、マスク警察や自粛警察と言われる人が活発に活動したり、理不尽なことがたくさん起こっていますから、このよう親鸞聖人という、いわゆる聖人というお方が言われることなんぞは、人間の自分には無理だ、と思う人も多いでしょう。しかし、このような自然の摂理というか、運命というか、自分ではどうしようもないことがあるとしたら、俗に言われている悪人を哀れみの目でみることができるかもしれません。生きていれば苦しみの多くは対人関係によるものが多いので、この考え方をほんの少しだけでも頭の片隅に入れておけば、人を憎んだり恨んだりする苦しみが軽減されるように思います。

人間は自分の身長すら思う通りにはできない頼りない存在である

 人間はとても不自由な存在で、生まれて来る前から与えられる条件は決まっており、どんな努力をもってしても、誠意を表しても、得られないものは得られない、と五木氏は述べています。努力したらなんとかなる、とか、引き寄せの法則で大金を引き寄せる、とか、お金を引き寄せるおまじない、が流行る時代は終わると思います。私達は何かになる必要もないし、何かを執拗に追い求める必要もないのです。求めれば求めるほど、ほしいものは逃げていきます。そんなムダなことをするよりも、自分自身や自分の周囲の出来事や人を見て、新しい発見や喜びを見つけて生きているほうが人間らしくて、しかも、楽でよいと思う今日この頃です。今日のあの雲はなんだか綿菓子みたいで綺麗だなぁ、と思いながら、お茶漬けを食べている人のほうが、案外幸せかもしれませんよ。けっして負け惜しみではなく、「絶対にお金持ちになってみせる!」と悪戦苦闘して、道端に咲いているかわいい花も目に入らないなんて豊かな人生とは言えないんじゃないか、と最近よく思うんです。

遠くに見える小さな明かり

 私達は闇夜の山道を歩いているようなものである、と五木氏は言っています。目的地が見えず、真っ暗闇で、足元には崖があって谷底に落ちるかもしれないのに、とにかく真っ暗で見えないから、地面を足でさぐったり、岩肌に手で触れたりしながら、不安と恐怖の中で半歩また半歩と進んでいます。しかし、そんな中でも遠くに小さな集落の明かりが見えたり、月明かりが足元を照らしてくれたら、どんなに救われるでしょう。もし背中に荷物を背負っていたら、荷物の重さが軽くなったりはしません。目標の集落までの距離が縮まるわけでもありません。坂をあるく足の負担が軽減することもないでしょう。しかし、彼方に見える灯火や月明かりは確実に私達を勇気づけてくれます。遠くに見える灯火はいったいどんなものなのでしょうか? それは人によって違うものかもしれません。なんであれ、苦しみに満ちた今の状況の中でより生き易くする唯一の方法であると、私は納得しました。

 

 この本を読んで、ノンデュアリティーの考え方によく似ているなと思いました。私達は、山○○子などの自分の名前がタイトルになっていいる本を与えられているようなものです。性格はこんな感じで、目が細くて、背が低くデブで、かなりイジメられやすいダメな子だけど、かなりの努力家で漫画を描くのがプロ級にうまい、というキャスティングを受けて、生まれてきているのです。努力家というのも遺伝子に組み込まれていて、努力家になろうと思ってもなれるものではありません。与えられた遺伝子の通りにしか、私達は生きられないのです。そんな環境の中でも幸せをゲットできるとしたら、または、苦しみから少しだけ解放されるとしたら、いったい私達はどのような心構えでこの世に挑んだらいいのでしょうか? 人生をもっと生き易くするためのヒントが満載の本、五木寛之氏の『人生の目的』をお勧めします。

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