南無阿弥陀仏

こんにちは!
素朴な疑問があります。
亡くなった人が見守っている、とか、
子孫の話を聞いている、とか、
仏壇のお供え物を味わっている とか、
よく言われますよね。
ご先祖様は亡くなっているのですから、
肉体的な機能がないわけですよ。
どうやって見るわけ?

 

寝る前にこの絵を観てください

 今日は、インスピレーションでこんな絵を描きました。よい波動がみなさまに伝わりますようにと祈りを込めて描いた絵です。一本目の波を描いた時、これが私が描いた最初の波なんだ、という感覚がありましたが、たくさん描いているとたくさんの波にうずもれて波を書いている感覚が無くなります。よーく見ると描いたんだな、と分かるけど、気にしなければ何もかいてないように感じます。でも、全体をみると、着実にいい感じの波が出来上がっていきます。私達は、このたくさんの波の中の一本みたいなものかもしません。あえて背景を黒にしました。黒は「無」を意味していて、波は「幻想」を意味しています。本当の自分は波に見えているだけで、実際には、私達は真っ暗な闇の一部なのかもしれません。
 今日一日の中で起こったいろんなことから解放されて、みなさまがぐっすり眠れるように祈りを込めて描きました。何も心配はいりません。すべては南無阿弥陀仏。阿弥陀様に任せておけばすべて大丈夫。これ本当です。私も絶壁から落ちる寸前のところで何度も助けてもらっています。

私達は目で見ているのではない

 冒頭で述べたように、ご先祖様には肉体がありません。どうやって私達を見守ってくれているのでしょう? 目や耳がなくても見たり聞いたりできるんじゃないですかね。時々不思議に思うんですが、私達人間も、本当に目で見ているのでしょうか? 耳で聞き、肌で感じ、舌で味わい、鼻で匂いを嗅いでいるのでしょうか? もしかしたら、目で見ているわけではないかもしれません。耳で聞いてないのかもしれません。医学では解剖学的に体の機能はちゃんと存在すると立証されています。でも、それで本当に目で見ている証拠になるのかなぁ? と時々思うんですよ。私は気が振れています? おかしいです? おかしいですよね? 私達の体を通じて、何かが見て聞いて味わって喜んでいるような気がします。それが私達の正体ではないでしょうか。

あの世はあるのか?

 死んだらおしまい、何もなくなって終わり、という悲しい考え方の人がいます。私はあの世はあると思います。地獄とか天国とかのランク分けがなくて、悪人も善人もすべて同じところに行くんじゃないかな、と思っています。人格は脳や遺伝子や環境が作り出したもので、ほんとのその人の性質ではないと思うんですよ。そう思うと、自分に不利益をもたらした人でも哀れみの心で見ることができるような気がします。すごく劣悪な家庭環境で育ち、親から虐待を受け、いつ死ぬか分からないような幼少期を送った人が、人間不信になって盗みや殺人をするケースをニュースなどで聞いたことがあります。そんな時、もし、自分がその人のような環境の中で成長したとしたら、同じことをしていたかもしれないと思うと、誰でも同じ生命の性質を持っているような気がします。人に優しくする性質も、人を騙したり、傷つけたりする性質も、私であり、あの人であり、全人類の性質なんだ、と思うんです。そう思うと、親鸞聖人の悪人正機説はすごいと思いませんか? 仏様は、善人よりも先に悪人を救うと言うのですから、分かるような気がします。悪人は、悪人を演じるように舞台監督や脚本家から指示されて悪人を演じているわけですから大変な役目を引き受けているのですよね。役者をするのなら、どちらかというと、かっこいい役につきたいですよね。ノンデュアリティーに関する本にも、人間は、遺伝子に組み込まれた通りにしか行動できない、と書かれていました。だから、肉体を失って、つまり人格も失って、丸裸になったら、中味はみんな同じなんじゃないかな、と最近思うんですよ。

 


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