世界は目覚めた人と眠ったままの人の二種類に分かれる

こんにちは!
今一番欲しいものは何ですか?
世界は今、経済的に大変な時期にさしかかっていますので、
ほとんどの人が、「お金」と答えるでしょう。
私もその一人です。
どうしても将来を心配して節約してしまいますよね。
ユーチューブなどを見ても、
お金に関する動画がたくさんアップされています。
しかし、相当な金額のお金よりももっと魅力的なものを
私達はすでに持っているような気がします。
そのことに気付くか気付かないかの分岐点が今だと思います。
人類がノンデュアリティーに気付く時期がきています。

京都の平安神宮

気楽になる人と苦しみ続ける人

 よほどの大富豪でない限り、お金に困っているのは誰も同じです。普通に生活できる標準的な人も、もしかしたら預金封鎖されるかもしれないと思って不安になっています。そんな状況の中で、今後、気楽になれる人と苦しみ続ける人に真っ二つに分かれるような気がします。
 タイトルにあるように、目覚めた人は気楽になれます。そして、眠りから覚めない人はいつまでも苦しみ続けるのです。目覚めた状態とは、自分が宇宙エネルギーの一部であることを知っている状態です。すべての物は宇宙から与えられた波動をもって存在しています。机には机の波動があり、フライパンにはフライパンの波動があります。人間も物も、空も雲も雨も、思考も感情も、すべてが一つのエネルギーの表現であり、与えられた天分をそのまま表現してそこにそれとして完璧に存在しています。間違っているものなどひとつもないのです。宇宙エネルギーの絶妙な計算の元ですべてが完璧な姿で現れています。私達は、自分の身に降りかかったことを、好むと好まざるに関わらず、そのまま受け止めたうえで、なんとかしようと努力なりなんなりするほういいのです。まず、どんなことでも受け止める、そして、努力の結果はどうなっても気にしない、つまり、天に任せる、というのがベスト。人間の力でコントロールできるものなんて何もないのですから、気楽なものです。そんなことはない、人類は、コロナに打ち勝つ薬を開発しているじゃないか、と怒る人もいそうですが、宇宙エネルギーの観点から見ると、誰がどんな目的でどんなものを誰に対して作ったか、という観念はなく、ただ、天から、というか、宇宙エネルギーによって、コロナから助かる道が差し出された、という事実だけがあるのです。天に任せることができない人というのは、自分の力でなんとかできると信じているので、かくかくしかじかでなければならない、と頑なに自分の歩むべき道に固執してしまい、思い通りにならないことに対して苦しむのです。たとえば、絶対に金持ちになってやる、といきがったところで、金持ちになっていったい何をしたいのですか? 人間の欲望は無限ですから、どんなにゲットしてももっとほしいと思うのです。大金持ちになったあとにアル中になる人がいるのは、そのためです。お金をゲットしたから、次はアルコールがほしくてたまらなくなるのです。ほしいものが、お金からアルコールに変わっただけです。
 永久に変わらない幸せは、今ここ、目の前にある「生」そのものかもしれません。生きているだけで丸儲けという言葉にあるように、生きていることを味わえることが幸せそのものという意味です。涙が止まらないほどの辛い経験も、口の中がとろけそうなほど美味しい物を食べた経験も、すべてを味わうことによって天国への道が開けるのだと思います。

他人も自分も許す

 目覚めるためには、まず、他人も自分も許すことが大切。許すということは、ゆるめて手放すことに繋がっているような気がします。いつまでも、手に持っていたら、次に手にしたいものを掴めませんからね。ノンデュアリティーによると、目に見えているこの世界は本当は存在していなくて、他人も自分も本当はいないということなので、存在していない人を許すとか許さないとか言っていること自体がおかしなことなんです。
 私達が普段考えている因果関係というのは空想であって、本当の世界には、因果関係はないというのがノンデュアリティーの考え方です。誰かに嫌がらせをされたという事実も、自分が嫌がらせをされたと思うところから「許せない」という感情が起こるわけです。自分の身に降りかかったと思うところからすべての不幸が始まるのです。そこで、自分が受けた嫌がらせの原因を究明しようと頑張ってみるとよく分かるのですが、嫌がらせをした人間Aが、私という人間に嫉妬した、という設定から始めたとして、究極的には、Aが存在しているから、とか、地球に生命が誕生したから、とか、元をたどると結局原因がないことに気付きます。ただたんに嫌がらせという行為が起こっただけなんです。美味しいディナーを食べている時も、ボーイフレンドがお金持ちだから、高級なディナーをおごってもらって美味しい物を食べることができている、などという因果関係は人間が作ったただのストーリーであり、ただ、美味しいと感じるものが口の中に入ったという事実があるだけです。自分の体を普段からよく観察してみると、そのことに気付けるかもしれません。道を歩いている時、足の裏に感じる圧力のかかり方を味わってみてください。学校に行くのに、バス停まで歩くため、足はアスファルトの固い感覚を感じている、というストーリーは人間が作ったものであり、足の裏は、ただたんにアスファルトの固さを感じているだけです。
 なんだか理屈っぽくなったかもしれませんが、自分が作りだしたストーリーに振り回されず、失敗してしまった自分や他人を嫌わず、完璧な宇宙エネルギーの中で起こっているすべてを受け入れることができたら楽になれると思います。そんなことを言っても、顔をつねってみたら痛いし、自分はちゃんと存在しているよ、と誰もが思うでしょう。私も、このノンデュアリティーを完全に理解することは出来ません。でも、ほんの少しだけでも、さわりの部分だけでも垣間見ることができたら楽になれると思うんです。

過去にフォーカスしないこと

 いつまでも、過去の失敗にとらわれてクヨクヨする人がいます。過去はもうなくなってしまった時間であり、未来はまだきていません。後ろばかりをふり向いていたら、頭の中でまたストーリーが出来上がります。あの時ああしなかったからうまくいかなかった、今からも、あれをやったらああなるだろう、などというストーリーが、未来の足かせになってしまうのです。
 ノンデュアリティーでは、過去も未来もなく「今この瞬間」だけが存在しています。不思議な話しですが、ほんとうは時間は存在していならしいのです。本当の世界は広大無辺な「無」の世界だけです。「無」というと怖いイメージですが、ノンデュアリティーの本の中では、愛に満ちた静謐な世界だと表現されています。私達は映画を観ているように人生を観ているらしいのです。愛にみちた素晴らしい世界からの光を受けてスクリーンに映し出される映画を想像してみてください。本来のスクリーンは、真っ白で何も映っていません。映写機から放出される画像を観て、私達の目は人や物が動いているように認識しているのです。すべての出来事は一枚のフィルム上にあります。つまり、すべては同時に起こっているのです。今、私はブログを書いています。でも、夜になると寝ます。書くという行為と寝るという行為は同時に起こっているのです。映画のフィルムと同じように。以前、不思議なことを経験しました。車を運転して帰宅途中、いつの間にか車も私も消えたんです。気が付いたら、自宅の玄関に立っていました。見ると、車はちゃんと自宅のガレージに収まっています。私は本当に車を運転して帰ったのかな? 運転していたはずの時間が私の中からすっかり抜け落ちていたんです。事故もせず、危ない経験もなく、無事に帰ったのだと思います。
 私達の深いところでは、未来の出来事はすべて分かっているのかもしれません。しかし、実際のところは、すべてはやってみなければ分からないのです。過去のデータを持ってきてストーリーを作ったりせず、日々の出来事を味わい、ワクワクしながら生きることが大切。私達は、自分物語という一冊の本を読んでいるのです。最後まで読んでみましょう。本当に小説を読んでいるかのごとく楽しむのが、スイスイとうまく生きていくコツかもしれません。

 どん底まで落ちてしまい、八方ふさがりで、どんなに努力しても何も助かる道が見つからない人は、ノンデュアリティーについて読んでみてください。すべての救いがここにあるような気がしています。

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