人生の意味

私という人間はどうして一人しかいないんだろう?
小学生の頃、不思議なことがあった。
お昼の休憩時間が終わったのに、
次の五時間目の授業が終わるまで、私は教室に戻らなかった。
校庭にひとりポツンと立って、教室に帰っていく生徒を見ていた。
教室に帰らなかった理由は全く分からない。
六時間目が始まるころ、気付いたら、私の体は教室に戻っていた。
私がひとりで過ごしていた時間がまるごと無くなっていた。
いったい、私はどこにいて、何をしていたんだろう?
どうして私という人間は私一人しかいないんだろう?

人生はこの巽橋のように短く儚い

人生は修行?

ところで、みなさま、人生に意味を見出そうとするほうですか? よく、人生は修行だ、とか、魂を鍛える、とか、地球は学びの場だ、とか言われています。ほんとうにそうでしょうかね? 確かに学びはあるように思います。しかし、修行ではないような気がしています。魂も鍛えなくてもОK。最近思うのですが、人生はただの娯楽かもしれませんよ。こんなことをいうと、一生懸命に自己研磨に励んでいる人に怒られちゃいそうですが、一生懸命何かに取り組んだり、苦しんだりすることも娯楽かもしれないと思うんです。私達は、ゲームのキャラクターみたいに、いろんなところに行って、いろんな人や物や事と戦ったり、遊んだりしているのかもしれません。キャラクターを操縦しているのは、キャラクター自身じゃなくて、ゲーム機のコントローラーを握っている誰かで、どこにいるのか分からない。

 

楽しんだ者勝ち!

本当の世界は、私達人間の目には見えない。でも、すべての出来事や人や物や事が、幻想ではない本当の世界に誘いかけている。この世は夢みたいに幻想の世界なのかもしれません。今のところ、私にとって人生は楽しむこと、いや、楽しむことであってほしいと願う。特にお金持ちでもないし、美人でもない。楽しむどころか苦しいことだらけ。周囲の人が、私が「人生は楽しむこと」だなんて言っているのを聞いたら、気が狂ったと思ったりしてね。でも、人間は究極まで苦しんだら、目の前に見えている現実を「嘘物語」にしてしまいたいんですよね。




 

善も悪もない

ノンデュアリティーの考え方によると、すべてはひとつのエネルギーから発生したと言っている。善も悪も、ポジティブもネガティブも、プラスもマイナスも、すべての感情も言葉も声も何もかもひとつのエネルギーの表現でしかない。あるものを善とし、あるものを悪とする思想は人間の歴史の中で作られてきた。たとえば、コロナウイルスは悪で、腸を整えてくれるビフィズス菌は善だ、という考え方は人間が決めたことだ。生き物を殺害することが悪だとすると、私達人間は、悪そのものということになる。コンロに火をつけると、空中にいる大量の菌を殺していることになる。手を一回ヒュッと動かすだけでも大量に菌が殺害されている。つまり、私達は大量殺戮を繰り返しているわけです。つまり、人間の味方をするものが善で、自分を傷つけるものが悪ということです。自分とそれ以外のもの、というふうに、自分を世界から分離した存在だと思うことから不幸が発生している。すべてがひとつだ、ということに気付けたらどんなに楽でしょう。ほんの一瞬でもいいからほんとうの世界の香りだけでも嗅ぎたいと思う。

 

生きている限り探求は続く

一体何のために生まれてきたんだろう? と自分の人生を呪いたくなる時期があった。幸せになりたい、と人は誰でも願う。〇〇になりたい、お金がほしい、素敵なお家に住みたい、と、飽くなき探求が続く。でも、どんなに探求しても本当の幸せは手に入らない。本当の幸せは、頭で理解できる代物ではなく、人間の奥深いどこかにある何かがすでに知っているものであるような気がする。手をのばせば、すぐにそこにあるのに、手に触れることも、見ることもできない。すべては神様の手の中にある。神様はあまりにも大きすぎて、私達は神様の手のひらにいるのに、気づかない。私達は、何かになる必要もないし、どこかに行って特別な何かをしなければならないこともない。そのままの姿、状態、環境で、最高の人生を生きているのかもしれない。どんぴしゃりの境遇に「今、存在してる」わけだ。

 

私が子供の頃から不思議に思っていたことの正体が、ほんのちょっとだけ姿を現した。ノンデュアリティ―の中に答があるような気がしている。

 

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