犯罪史上最も残虐な殺人鬼ーー10万人に1人と言われている男

みなさま、こんにちは! 今日は1997年に起こった神戸連続児童殺人事件について考えてみようと思います。すでに20年以上が経過していますが、非常にインパクトが強かった事件ですので、覚えている方が多いと思います。逮捕後の調査から、犯人は10万人に1人と言われている性的サディズムだということが判明したそうです。性的サディズムとは、人や動物を気付けることで性的快感を得るというものです。ウィッキペディアや他の資料を基に事件をまとめ、感想を書いてみました。このような事件が嫌いな人は読まないでくださいね。

酒鬼薔薇聖斗が描いた絵(本名は未成年であったため不明)

事件の内容

1997年2月、小学生の女児2人がハンマーで殴られ1人が重傷を負った。同年3月には神戸市須磨区多竜が台の公園で、小学4年生の女児を金槌で殴り殺している。そのわずか10分後には別の小学3年生の女児の腹部を刃渡り13センチのナイフで刺して重傷を負わせた。さらに同年5月には近所に住む小学5年生の男児を巧みな言葉で誘い出して殺害し、頭部を切り離して口を耳まで裂き、その口に犯行声明文を挟むという極めて残虐な犯行に及んだ。少年犯罪史上最も残虐な事件として世間を震撼させた。

最も残酷だった5月24日の殺人

誰でもいいから殺したい

酒鬼薔薇聖斗(以下少年Aと呼ぶ)は殺す事ができる適当な人を探すために自転車で出かけた。同地区に住む放射線科医師の小学5年生の11歳の次男を発見。山に連れて行き、絞殺しようとした。指紋が付くことを恐れて手袋をはめた。男児の真後ろから男児の首にいきなり右腕を巻き付けて力いっぱい首を絞めた。男児は手足をバタバタさせて大きな声を出した。これでは殺せないと思い、男児を仰向けにして押し倒して首を絞めた。それでもなかなか死ななかったため、男児の腰に馬乗りになって、男児がエビのように反りかえるまで首を絞め続けた。それでも死なない。今度は腹の上に馬乗りになって、両手で男児の首を力任せに締め付けた。それでも死なず、腕の筋肉痛が強くなった。ナイフで殺そうと思ったが、ナイフを忘れてきたことに気づき、土中に埋まっていた石で撲殺しようとした。しかし、その石は地中深く埋まっていたため取り出す事ができず、自分の運動靴の紐をほどいて、紐で絞殺しようとした。首に靴紐を掛け、うつぶせになっている男児に馬乗りになって、まるで馬の手綱を引くように紐を引っ張り男児の首を持ち上げた。少年Aは、それでも死なない男児に腹を立て、男児の顔や頭をかかとで蹴ったり顔を殴ったりしたという。しばらく絞め続けたところで呼吸が止まった。それでもまだ死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端をフェンスに結び付け、さらに絞め続けた。そこで、男児の左胸に右耳を当てて心音が無くなったことを確認した。

脳の仕組みが普通ではない

計画的にではなく衝動的に人を殺そうとしているのに、指紋が付くことを気にして手袋をはめるというのは、あまりにも落ち着き過ぎていますよね。しかも、相手が手足をバタバタさせたり、大声をあげたりすると、普通の人は動揺してしまいます。なかなか死なないからと言って、蹴ったり殴ったりするのも、異常としか言いようがない。

死体を隠す

次に、少年Aは死体を隠さなければならないと思った。近くにあったアンテナ施設の中の建物の床下に草が生えていたので、フェンス越しなら見えにくいと判断。しかし、入り口には南京錠がかかっていた。そこでホームセンターに行って、糸ノコギリと南京錠を購入。南京錠を壊しただけでは怪しまれるので、新しい南京錠と糸ノコギリを万引きした。万引きの理由は、お金がなかったことと、顔を見られたくなかったからだという。南京錠をノコギリで壊して、男児を引きずっていき、床下に男児を蹴って入れた。その時、男児の運動靴が建物付近におちているのに気づき、拾って死体のそばに置いた。その後、待ち合わせをしていた友人とビデオショップで平然と遊んでいた。夕方6時に帰宅すると、母親が「○○君がおらんようになったみたいよ」というのに対して、「ふうーん」と返事をし、疲れていたため夕食も食べないで寝たという。夜中に目がさめて、南京錠を切るために使った糸ノコギリで死体の首を切ってみたいと思った。

異常行動と適格な判断能力

人間の相当な苦しみを目の当たりにした直後なのに、非常に冷静にあたりを観察して死体の隠し場所を探しています。南京錠を壊すのに糸ノコギリを思いついたり、そのままにしておかずに新しい南京錠をつけておくことも考え、さらに、ホームセンターでは顔を見られないように万引きをしています。人間は、悪いことをして自分の中だけに収めておくという行為には耐えられないのです。それを平然とやってのけられるこの人物は怪物としかいいようがないように思います。帰宅してからも、母親が、「○○君がおらんようになった」と言うと、近所が騒ぎ出した、と思って動揺すると思うのですが、「ふうーん」となにげない返事をしている彼の態度にはぞっとします。しかも、疲れていたからといって眠れるものでしょうか?

死体の血は金属の味がした

翌日25日の午後、死体の首を切りに行った。黒のゴミ袋二枚と、アンテナ施設の枯れ葉に隠した金鋸を入れるためのカバンと、「龍馬のナイフ」と呼んでいる小刀一本を服の下に入れて出かけた。ゴミ袋は大量の血が流れる可能性があると考えて持って行った。以前は竜馬のナイフを三本と出刃包丁一本を持っていたが、竜馬のナイフ2本は親に取り上げられていた。少年Aは、男児の死体を床下から引きずり出して首を切りやすい体勢にした。首の目は見開いたままになっていた。ただ単に首を切って見たかったのでとくにワクワクした気持ちはなかったという。当時、取調官はAに「男児の死体の目や顔を見ながら、その首を切るのに抵抗はなかったか」と尋ねた。Aは、「別にありませんでした。僕が殺した死体であり、いわばボクの作品だったからです」と答えた。糸ノコギリの両端を持って一気に首を切った。切り取った首を地面に置いて鑑賞した。満足したという。しばらくして、男児が少年Aの声を借りて、「よくも殺しやがって苦しかったじゃないか」と文句を言った。Aが、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」というと、男児はさらに文句を言ってきた。Aは、男児にまだ魂が残っているからだと思い、「竜馬のナイフ」で男児の両目を突き刺し、両方の瞼を切り裂き、口の両サイドを両耳に向けて切り裂いた。そうすると文句を言わなくなったという。「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰りたかったので舌を切り取ろうとしたが、死後硬直のためできなかった。ビニール袋に溜まった血を飲むと金属をなめているような味がしたと述べている。Aは、自分の穢れた血が純粋な子供の血によって清められると考えていた。また、血を飲むのは、「幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れである」とも言っている。

悪いことをしているという自覚がある

かなりの血が出ることを想定して用意したゴミ袋、金鋸を入れるカバンなど、かなり冷静沈着で計画的です。竜馬のナイフ3本の内2本は親に没収されたと言っていますが、もう1本は隠していたのでしょうか? 1本だけは持たせておいていいだろう、と親が思ったのであれば異常ですよね。竜馬のナイフ3本と出刃包丁1本、この四本を全部を親が見たのであれば、子どもになんらかの異常が発生していると感じなければいけないと思います。死体の目や口をさらにナイフで傷つけるという行為はもう人間ワザではありません。その反面、幼い命を奪って気持ち良い、と感じている自分に自己嫌悪を感じているのが不思議です。悪いことをやっているという自覚は持ち合わせていたのでしょう。また、警察に捕まることを恐れていたということも、悪いことをしているということを自覚していると言えます。一般的な解釈をすれば、麻薬やタバコのように、体に悪い、と分かっていてもやめられない状態に似ているのでしょうか?

頭の中でシナリオを作る

首を切って観察した後、首をビニール袋に入れたまま、木の根っこのところにあった穴に隠した。翌日も、隠した首を見に行ったが、青白くなっていた以外に変化がなかったので興味を失い、家に持って帰ることにした。ところが、どこに首を隠したらいいのか分からなくなった。日本の警察なら必ず、胴体も首も見つけるだろうから、自分のほうから首をあえて晒そうと思った。一番よいと考えた場所が自分が通っている中学校の正門のところだった。まず、首を風呂場でたらいに入れて洗った。その理由は二つ。ひとつは、殺害現場を特定されないように土や葉っぱなどをきれいに洗い落とすことが目的で、もう一つは、自分を警察から遠ざけるという役割を担ってもらう首の初舞台だから綺麗にしてあげたかったという。しかし、これだけでは物足りない気がして、偽りの犯人像を手紙にかいてそれを首の口に付けようと考えた。手紙の内容は、『瑪羅門の家族』の中の「積年の大怨に灼熱の裁きを」という漫画の一部分から選んだ。これを使えば、長年の怨みを持った者の犯行で、しかもある程度歳をとった人の犯行だと思われると考えた。手紙の中に見られる「汚い野菜」という表現は、A自身の言葉で、Aが幼い頃に両親から「運動会で緊張するなら、周りの人間を野菜と思ったらいいよ」と言われていたため、周りの人間が野菜に見えてしまうと供述している。

ゲーム感覚なのか、それとも、警察が怖いのか?

警察に逮捕されたくない、という気持ちもうかがえますが、どこかゲーム感覚っぽいところがあります。土や葉っぱを洗い落として殺害現場が特定されるのを避けたい、というのは、確かに警察を恐れているのでしょう。しかし、死体に手紙をつけて自分ではないように見せかけるための工夫を凝らすというのは、幼稚であり、周囲の反応を見て喜んでいるのではないかとも思えます。私が思うのに、この少年Aという人物は、あまりにも平然としているので、死体をあのままアンテナ施設あたりにほったらかしにして知らん顔をしていれば、むしろそのほうが、事件は難解なものになっていたような気もします。殺人をした後も友達と平然と遊んでいるわけですから、誰も気が付かない可能性があります。ぞっとします。

地面から生えた首

翌27日の午前1時~3時の間に、Aは、首を持って学校に向かう。家から出る際、両親に気づかれないように、電気コード2~3本をつないで、そのハシを首の入った補助カバンに結び付けてそれを二階から降ろした。Aも二階から出た。学校に着くと首を正門右側の塀の上に置いたが、座りが悪くて手前に落ちてしまった。そこで今度は正門の鉄扉の前に顔が道路の方に向くようにして置き、口に手紙を加えさせた。まるで地面から首が生えているような感じになり、5~6分ほど眺めたという。その時、性的興奮がマックスになり、性器にまったく触れていないのに、何回も射精したという。同日のニュースで、Aは首が発見されたことを知る。胴体部分もすぐに発見されたことにびっくりしたが、犯人は周辺の人物ではないと報道されていたので、自分が犯人と特定されることはない、と調子に乗って、再び神戸新聞社に手紙を出すことにしたという。ところが、筆跡からAが特定されてしまい、Aは逮捕された。Aは筆跡でばれてしまうのではないかという不安はあったが、警察を甘く見ていたと供述している。

親は怖いのか?

両親にバレないように電気コードを利用してカバンを二階から降ろし、自分も二階から出たということは、親はAにとっては怖い存在だったのでしょうか? Aのことだから、きっと電気コードもカバンに入れて、カーテンも閉めて、二階からでた痕跡も消してから出かけたのでしょう。もし、親にバレてしまった場合、親はいったいどんな反応をしめしたのでしょうか。親子関係についてあまり語られていないから想像でしかありませんが、親子の会話が正しい形で行われていた場合なら、親が警察に届けるでしょう。しかし、この事件から感じられる親子関係は、あまりいいものではなかったのではないかと思われます。「今日のクラブ活動はどうだったの?」などという普通の会話がなかったのかもしれません。子どもは、普段、親の心子知らずというか、自分で大きくなったような顔をしていますが、心のどこかで、「お父さんがいるから、あるいは、お母さんがいるから、大丈夫」と思っています。そうかといって、そんな綺麗ごとがこの事件に当てはまるとも言い難く、Aの言動は病的です。

臭い物にはフタ

神戸家庭裁判所はAを医療少年院が相当だと判断。関東医療少年院に移された。そこでAはさまざまな治療を受けるが、少年院仲間に「いくら遺族の手記を読んでも、薬を飲んでも、治らないんだよ。ボクは性格が異常なんだから……」「闘争と破壊こそ真の世界の姿だが、少年院ではいい子にしてなければ出られないから気をつけなくちゃ……」と言っている。院内では院生からのイジメやトラブルもあったが、2004年秋には仮退院し、法務省関係者と同居して、炊事や買い物を行うなどの社会勉強の段階に入った。少年院で取得した溶接の資格を活かし、仮退院の数日後からまじめに働いた。また、別の身元引受人と養子縁組して名前を変え、出生地や学歴などのプロフィールを用紙して、同僚や付近住民もAの正体が分かってないという。しかも2004年末までの保護観察期間が過ぎれば、同居者もいなくなって自由の身になるという。取材によると、Aの構成プログラムは、「寛解」の段階に過ぎないとしてあり、性的サディズムの治療はされていない、とのこと。少年院でもいろんな問題をおこし、退院しても問題が再発する可能性があるとされていたが、国家の威信をかけた更生プログラムを行った法務省の面子を守るために、少年院での奇行がウヤムヤにされている状態である。さらに、少年が更生したかどうかを証明する決定的な証拠はない、と法務省は言っている。人間の一生や人々の安全が、役人の面子で決められるのはおかしい、と批判の声がある。

私達はジャングルに住んでいる

 最近、千葉県で通り魔事件があり何の罪もない人が傷つけられました。この世は、弱肉強食のジャングルのような気がする時があります。自動車事故もそうです。青信号でも横断歩道をウカウカ渡っているととんでもない事故に巻き込まれたりします。少年Aの場合は、衝動的であるのに計画的でもあるという「予測不可能」な存在であるため、とても怖いのです。目に見えない罠を掛けられて、罠ごとスっと連れて行かれるような恐怖感です。しかも、再発の危険があるといわれているのに、Aは解放されています。お腹の空いたライオンを鶏小屋に放してしまったような気がします。いくら病気だとはいえ、あんなに惨い殺し方をした人に特権を与えすぎています。養子縁組をして名前を変え、プロフィールも作り、事件の痕跡を綺麗さっぱり消しているのです。
 面倒臭い事を解決するにはかなりの時間と根気が必要。面倒臭いからといって、「まっ、このくらいでいいだろう」と妥協していると、そのしわ寄せがどこかに現れるものだと思います。人類はそれを繰り返しているような気がします。困った事態はいろんな表現方法を使って現れますが、人間の怠慢が続いている限り、その困った事態は何度でも現れるのです。

少年Aが書いた犯行声明

 

犯行声明文①

さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の怨霊に流血の裁きを
SHOOL KILLER
学校殺死の酒鬼薔薇

犯行声明②

神戸新聞社へ
この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道陣

がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた

人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう
やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむこともできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在である続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の実在の人間として認めていただきたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。
すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日ごろの憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

最後に一言

この紙に書いた分でおおよそ理解していただけたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚されることには我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思いえないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね

ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大違いである。
―ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっているー

  懲役13

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。

魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る。それには、自分だったモノの鬼神ごとき「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。到底、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。こうして俺は追いつめられていく。「自分の中」に…

しかし敗北するわけではない。行き詰りの打開は方策でなく、心の改革が根本である。

大多数の人達は魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのようにふるまう。彼は得そのものが持っている内容以上の得を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと俺たちが思い込んでしまうように。

今まで生まれてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。

「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」

魔物(自分)と戦う物は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである。

「人の世の旅路の半ば、ふと気づくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、真っ暗な森に迷い込んでいた」

 

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